poco a poco

中二から統合失調症を抱えて〇年目。

集団的ひきこもり、とは

さっき書いていた記事がトビました…はぁ。。
とりあえず子供の供は目下の者に使う言葉なので、子どもと表記しなさいっていわれるよーってことだけまた書いておきます。

日本語いやむしろ言葉って使われる道具でしょ、言葉の使われ方に関してよく正しい正しくないって議論がなされてたりするけど、
言葉は話者に使われることによって、その意味も使われ方も、どんどん変化するものなので、
どういう意味でその言葉を使うべきか、って判断は若者に委ねるしかないのかなって思わないでもないですが。

夫のことを「旦那」って呼ぶのは日本語としてまちがっているよってよく言われますよね。ましてや自分の夫を「旦那さん」なんて呼ぶのはもっとマズイと。
でも、実際にそのまちがいを指摘できるかっていわれたら、「あーこの人も旦那っていってるー」と思うだけで指摘はできないかなあ、と個人的には思ってます。
しかも私の場合は相手が目上の方になるので、目上の方に「あなたそれはまちがった日本語の使い方ですよ」なんて言えないでしょ。言いたいけど。

そういう意味では、はやく年を重ねてしまいたいって思うことが多いです。だって目上だろうがなんだろうが、まちがったこと言うしやるでしょ。正直。

電車のなかとかでもマナーもルールも守らない人っていくらでもいますよね。
年いった人の方がマナーモードにもせず通話するし。優先席で通話するのも普通だからね、あの人たち。
ふつうなら優先席へどうぞ、って思うようなご老人団体も一般席占領されるとさ、「ええ・・・なにそれ・・・」ってなりませんか。荷物座席に置いたりする人も多いし。
日ごろあんまり電車に乗らない・長距離乗らないご高齢の方、おじさんおばさんほどそういうマナーやルールを守らないよなあって思います。
私は、いつも1時間くらい電車に乗らなきゃ通学できない場所に住んでいるので、あんまり席を譲ったりはしません。だって大体の人はすぐに降りるし。

まあそれはよしにして。
あと、電車内でわざわざ足組む人とかやたら足開いて座る人なんなの。って思うのですがこれはちょっと神経質すぎるかなあ。。。
一応公共の場なんだし、足組むなよが持論です。私の場合は、あまり前に足を出したりもしません。
その分、快適な旅とは言えませんが、まあ視線恐怖症のせいで電車は快適に乗れるはずもないので、まあそんなもんだーと思ってます。
この頃は、電車に乗るときのお伴として音楽以外に小さめの本とか読みたいなあと思ってます。ガッツリ専門書だと目が疲れるから逆に寝ちゃうんですよね。

なんかさっき書いたこと(消えた内容)忘れちゃったなあ。

とりあえず、うちは変わってて 独裁者の父と、付き人の母、非行に走った不良娘の姉 そして私って感じだったので、
私が小学校に入ってすぐに 姉はたばこ・お酒を始めました。おかげで家じゅうが臭かった。
家族団らんはなく、私は何かと父に怒鳴り散らされ泣いてました。姉は部屋にひきこもってました(そして部屋の壁に穴を開けたw
家族で出かけることもなく、家族写真もなく、(姉妹でも両方ない)、家族旅行とかありえないと思ってました。
家に人を呼ぶこともなく、父方の親戚づきあいもゼロ。

おかげさまで、他者に対する恐怖心は募りに募り、 友人宅へ招かれた際もフランクによそのおばさんと接することもできず、ましてやおじさんなんて恐怖の対象そのものだったので、話しかけられたりすると大体おびえてました。
バカみたいに怒鳴り散らすのはうちの父親ぐらいのもんだ、ってことを知らなかったんですよ。。。世界が狭すぎた

人に会ってニコニコと挨拶できない私 = できそこない くらいに母には言われてます。いやいやいやって話なんですが私の問題らしいのでもうバカバカしいやってられないですな。
まあ社交性の低い子どもに育つのも当たり前、そんなの誰でも考えなくてもわかることだと思うんですがね。母は納得しやしない。

そんなこんなで非行に走り続ける姉(いまはデキ婚してヤンママ)、そして精神障害者の私って感じですね。



これまた話が変わりますが、意外とこのグチグチいいたいこと言ってるブログを読んでくださってる方がいるみたいで。ありがとうございます。
いいね!的ななんちゃらスターも頂いてます。ありがたや。
ただこれ何に使うのかがわからないwそもそもはてなブログあんまりよく知らないw
なんとなく「ブログ」って検索してたどり着き、見た目がスッキリしてていいかなーと思って はてなさんで初めたので。。仕組みが分からない。。

その内、メンヘラ系のブログランキングにでも登録しようかと思ってます(どーでもいい

さて。
前回の記事にて「精神障害者の雇用のための社会的支援~」的なレポートを書いたといいました(打ちました? が、
最近は、感情労働ケアワークについてレポートを書きました。
「介護報酬の引き下げ」ってニュースになったやつ、あれを元にして。
あと、あれだ、近代家族はセーフティネットとしての役割を果たすのか、近代家族の代わりに公共圏をセーフティネットにできるのか って話についても考える機会がありました(講義の関係で

それを両方組み合わせた話になりますが
要介護の老人って残念ながら、家庭にとっては負担にしかなりえないんですよ。感情云々は抜きにしてね、現実的に。
女性は「嫁」や「母」として人の世話をすること、ケアリング自体を役割・責任とする考え方、ないしは「母性愛」という価値観を内面化してることが多いので、感情と絡めて「ケアワーク」に対していいイメージを抱くこともあるかと思うんですが。
残念ながらほとんどの家庭において、要介護老人なんて負担でしかない。金銭的にも肉体的にも精神的にもとても面倒を見切れない。
肉体的な負担だけならいいんですけど、認知症ってもっと厄介なわけで。「困った人」になっちゃうんですよ。これは仕方ない。

なので、そういった「困った人」というくくりとして、老人や私のような精神障害者ニート、ひきこもり・・・もろもろ家族に面倒を見てもらわなきゃいけなくなることが多い人々って相当数いるでしょ。
でも、そういった社会的弱者を本当に家庭は助けてくれるのか、セーフティネットになってくれるのかって話ですよね。

ああ、もともとの背景説明せねば。
ある人は 家庭において困ったメンバーがいても、家族はセーフティネットとなって助けてくれるものだ。だから家族はセーフティネットとしての役割を果たすことが出来る、公共圏とは違って! なんてことを主張しているんです

この主張に対して、おいおいそれはどうなんだ??と反駁したくなるんだよなあ~~~~ってずっとこの話聞いてから思っていて。

たしかに私は、ニートについても詳しくないし他の精神障害者のことも知らない。ましてや彼らの家庭事情なんてもっと知らない、わからない。
だからもしかしたら、他の統失の人の家庭はもっと家なんかよりも「まとも」なのかもしれない。少なくとも親戚にもだれにも言えない・いわない、むしろ病気であること自体を否定する なんて対応取らないのかもしれませんが。
なんか、この「家族はセーフティネットとなってくれるものだ」といわれると、ますます「じゃあこんな目に遭ってる私は、いったい何なんだ・・・」みたいな卑屈モードに走ってしまわざるをえないというかね。
なんか「家族によって苦しめられている社会的弱者」の存在を無視・軽視する発言に思えてならないです。

その一方で、『ひと相手の仕事はなぜ疲れるのか―感情労働の時代』という本があって、その中で「集団的ひきこもり」という言葉が紹介されています。
同質性の高い仲間だけと仲良しグループを作り、身を守ろうとする ことをそういうらしいです。
彼らは、同質性の高い仲間としかつるまないので、意識の中に他者を措定しておらず、他者に対する無関心・無理解が当たり前という価値観を持っている。
社会的他者に対する自己、の確立ができていないので、社会一般に向ける「自分」というものがない。

要するに、仲間内でしか使わない造語を使って話をしたり、他者に対して適切な言葉遣いをしなかったり(やたらとタメ口をきいたり することに対して、問題視している発言なんですね。

この学生の「うちら仲良しグループ」を作って、「うちらの世界」の中で生活し「うちらの基準」で物事を判断して好き放題言ったりやったりしている傾向って昔も今も変わらないんでしょうね~って思います。
というか、大学に入って一番驚いたのこれですね、この「うちら仲良しグループ」の存在。私が在籍する学部って女子7,8割なんですよ。だからかな。
自分たちが基準、自分たちの考え方が「常識」だからそれを貫き通す、誰にでもそれを適用する・させる ってこの力技。
まあ要するに幼稚、というか世界が狭い!
自分たちが「常識」、自分たち以外はすべて「ちがうもの」みたいなその考え方って社会でも通用するのか?ってすごく疑問なんですが。
こういう自分の夫のことを「旦那さん」と呼ぶ女子力高い子たちって、どれだけそれが幼稚で非社会的なことなのかわかってるのか???といつも思います。
こういう「女子」は私的領域で生きるしかないですね。うん。


じゃないや女子批判を目的として取り上げたわけじゃないのにw長々と書いてしまいましたが
「集団的ひきこもり」つまり同質性の高い仲間だけで身を守ろうとし、他者に対する無関心を貫き通す傾向って割と誰にしもいえるというか、ありがちなことなんじゃないかなあと、
私は社会的弱者の中の一員?として、社会的弱者に対する世間一般の人々の無関心・無理解っていかなるもんなのかなってずっと思ってます。
たとえば、どれだけの人がアスペについて知っているか、どれだけの人が精神障害について知っているか、どれだけの人がLGBTについて知っているか。。
たぶん大多数の人は知らずに一生を終えるんだろうな、と
そういう人々に対して必要なのは、かわいそう~大変ね~みたいな「共感」ではなく、知的努力という「同情」なのではないかと思います。
大体、そういう人々に対して「かわいそう~大変ね~」っていうのってどうなんだ?って思うんです。

たとえば、トランスジェンダー(異性装者)の三橋さんは、ニューハーフが「性同一性障害というかわいそうな病気の人」として理解されるようになったことに対して、その人を「病者」として理解するということは、「かわいそうな病気の人」という考え自体が、見下していることに近い(だったかな?)といっています。
そこには、病者として理解してしまったら、その人との間には対等な関係が築けない、っていうんです。
卒業研究としてトランスジェンダーについて勉強している中で、この意見に出会ったとき、「これだ!」と思いました。

障害者、とか病者、として理解してしまうと、そこには対等な関係って築けないんですよ。
先日、特例子会社で働かれている方が、「障害者の方にもこんなことができる、我々ができないことも障害者の方はできる」みたいな話をなさってました。なんか、すごく障害者のことを見下してるなあと思ってしまい、ビミョーな気分になりました。
「障害者は我々ができるようなことを何もできない」というのが社会的通念・常識としてあって、だけどそれはまちがっていて「障害者でもこんなことができるんです」っていうメタファーのように聞こえてしまいました。私がねじまがっているからなのか、それともそんなものなのかわかりませんが。

「障害者の方にはこんなこともできるんですよ~すごく可能性に満ちてます。我々健常者は、障害者の方の可能性を引き出すことが責務なんです~」っていうこと自体がおかしくないかと私は思います。なんか私に言わせれば、たかが一健常者のくせに障害者よりも自分が優れていると思い込んでるんじゃねーよ と。


また話がずれました。
なので、そもそも「かわいそう」とか「大変ね」って言葉自体をかけることが たかが一健常者のくせに何様だよ そんなに健常者でいること自体が偉いんですか????って逆切れしたくなるんだよってことを言いたかったわけです。

それで、LGBTとは性的マイノリティ レズビアン ゲイ バイセクシュアル トランスジェンダーの総称です
私は卒論でトランスジェンダーを研究対象としたものを書きました。楽しかった。
トランスジェンダーとは性別越境者のことを意味していて、つまり自分の心の性(性自認)と身体の性が異なり、その自分の心の性に合わせた生き方を選択する人のことです。
いうなれば ゲイはおすぎさんぴーこさん、 トランスジェンダーははるなアイさんサトウかよさん みたいな感じです。ニューハーフとかもトランスジェンダーの仲間ですね。
その性別違和というものを原因とした精神的苦痛 のことを「性同一性障害」といいます。金8でうえとあやさんが演じた鶴本ナオなんかも典型的なこれです。
人々はニューハーフは受け入れないけど、「性同一性障害」の人は「かわいそうな病気の人」だから受け入れてあげるべき、みたいな考え方があるんです。

そのね、性的マイノリティの人々に対する差別意識って結局、「ふつう」とちがうこと=おかしい、咎められるべき、問題視すべき って価値観に基づいているわけなんですよね。
自分たちマジョリティが作る「ふつう」がそんなに正しいものなのか、「ふつう」とちがったら「おかしい」のか、「おかしい」からバカにしたり下に見たりしてもいいのかってなんで誰も考えないんだろうって。

「ふつう」の自分たちという同質性の高い仲間グループ と異なる他者に対してもっと関心を持つべきだし、理解しようと知的努力を重ねるべきなんじゃないのかっていうのが私の主張です。

まあこんなことを精神障害の私がいうことに何の意味があるんだろうって思いつつも、卒論書いて出しました。自分みたいな社会的弱者に発言権があるのか、社会的弱者のいうことに価値なんかないんじゃないのかってね。
せいぜい世間の目に晒されないようなところに隠れながらぼやくぐらいしかできないなあ、って自分の無力さをかみしめるわけです。
とくに日本は「集団的ひきこもり」の傾向強いので、多様性もくそもへったくれもない国なのでね 「ふつう」ってこと自体が大層えらいらしいのでもう諦めます。ゲームセットですね。


なんかイマイチまとまりがないなあ。ちゃんとテーマ決めて書き始めたつもりだったののに。まあいいか。

それでは~